テンペスト歴史旅行~ペリー来航・日程編~
今日はテンペスト歴史旅行No.2
No.1は牧志・恩河事件でしたが、
No.2はペリー来航。
ペリー来航は書きたいことたくさんあるので、3回くらいに分けてかくことになりそうです(^^ゞ
1回目は、来航~条約締結までの流れを中心に
っていうかそこだけ?
を書いていきたいと思います
ここからの日付は太陽暦で書きたいと思います。
テンペストがペリー来航のところを読む限り太陽暦っぽかったのでそうしました。
黒船来航
1853年5月26日那覇港に米国艦隊がが姿を現した
時は1853年5月26日。
大陸だ発生した時代のあらし嵐が東シナ海を北上していた。
「これが列強の力かー!」
江戸が黒船ショックに見舞われる一足先に、ペリー提督が琉球を訪れようとしていた。
6月6日艦隊は首里城を訪問し、総理官と会見した
総理官はこの責任をとって総理官を辞任します
↑真鶴が屏風(びょうぶ)の裏から聞いてたやつだ
6月9日艦隊はミシッピ号を残して小笠原諸島に出航
6月18日に那覇に帰航した。
艦隊は資材を補給し、7月2日サプライ号を残して浦賀に向かった・・・・・
寧温が浦賀に向かわせたんだよな~
7月25日大統領の親書を幕府に渡したペリーは浦賀から帰って来た。
そして、8月1日香港に向けて出航した。
その翌年の1854年1月21日ペリーが軍艦三隻と一緒に再び那覇港に姿を現わした。
首里城訪問、資材供給後の2月7日、江戸に向かって出航した。
日米和親条約締結後の7月1日にまたまた来航←何回来るんだ~!!
7月7日に琉米修好条約締結に向けての交渉がスタートした。翌日、条約案に修正を加え、
米国側は条約に関しての琉球側の回答期限を7月10日にした。
7月10日に琉球側は条約を承認すると答えた。
7月11日に調印した。
ペリー提督は第一文に自由貿易を盛り込めてまずまずの出だしに手応えを感じた。
寧温のクイーンズ・イングリッシュは彼の自尊心を満足させてくれた。
テンペスト 4 p27 池上永一著 角川書店
テンペストでは・・・・・
艦隊が来航後、朝薫が交渉するも、うまくいかず、
尚泰王が孫寧温に恩赦を与え、孫寧温が復活。
寧温の交渉能力にはペリー提督も舌を巻いていました(笑)
条約締結の時も寧温がイイ方向に持って行きます!
ちなみにワタシが一番好きなシーンでもあります(^u^)
琉米修好条約を締結した王府に一年越しの安堵が訪れた。
孫寧温は王から褒美を賜わり、また出世の道を歩み始めた。
日本よりも有利な条約を結んだ寧温に異議を唱える者はもういない。
テンペスト 4 p33 池上永一著 角川書店
まだまだ書きたいことはたくさんあります(笑)←特にペリー来航のところに関して
が、まそれはまた今度
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あ~こんな記事書いてたらやたらテンペスト読みたくなってきた~
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